こんにちは Shumanです。
フランスの映画俳優アラン・ドロンが引退を表明しました。
彼の60年にわたる華麗な俳優人生を改めて振り返ってみました。
フランスの俳優アラン・ドロン(81歳)が引退を表明しました。
■引退の記事はこちら
ドロンさんは「もうこの年だ。人生の終わりではないが、キャリアの終わりだ」と述べ、現在計画が進んでいる映画と、舞台作品にそれぞれ出てから引退するという。
ドロンさんは過去にも引退を宣言したことがあるが、今回は「本当」だとしている。
「最後の映画」は名匠パトリス・ルコント監督作品で、2018年に公開予定。
脚本はほぼ完成していて「自分の人生によく似た役柄」を演じるという。
ドロンさんは「太陽がいっぱい」「山猫」「冒険者たち」など数多くの映画に出演し、1960年代にスターに上り詰めた。(共同)
81歳という年齢からも(引退は)不思議ではないです。
若い人は彼の作品自体を見たことさえないかもしれません。
日本では「美男子」の代名詞として絶大な人気を誇っていたことさえ、ピンとこないかもしれません。
また、代表作である「太陽がいっぱい」からずっと知っている中高年以上のファンでも、最近の彼がどんな作品に出演していたか知らない人も多いんじゃないでしょうか?
「あの人は今」という状態でしょうか?
時代の移り変わりを感じます。
そこで、アラン・ドロンについて、まとめてみました。
すると、華やかで華麗なイメージとは裏腹に、複雑な家庭環境で育ち、愛情を求めながら這い上がってきた人生が見えてきました。
■出生は?
1935年11月8日パリ郊外のオー=ド=セーヌ県ソーで生まれる。
父は小さな映画館を経営、母は後に結婚するナタリーと雰囲気の似た美人で、薬剤師の資格を持っていた。4歳で両親が離婚し母方に預けられるも、再婚したシャルキュトリ(ハムやソーセージなど豚肉加工品専門の食品店)の義父と合わなかったこと、そして母親が新たに生れた娘(エディット)だけを可愛がったためにアランはのけ者とされる。
さらに追い討ちをかけるように実父も再婚、息子ジャン=フランソワ(後にアランの映画の製作に参加)が生まれていた。
それら家庭不和による愛情不足のため女生徒とたびたび問題を起こして寄宿学校を転々とし、最終的には手に負えない問題児として感化院に入れられ、一時的に鉄格子生活を経験するはめにもなった。
その後14歳より前述の食品店で働き始めた。
自分の居場所を求めていたアランは苦肉の策としてフランス海軍へ志願。
未成年者は保護者の承諾が必要だったが、母は義父の言うがままに承諾した。
この一件で、母への憎しみが根深く残ることになり、次第に女性不信という形で表れていった。
こうして17歳で入隊し、マルセイユより貨物船に乗せられ、カービン銃の扱いだけを教わって第一次インドシナ戦争へ従軍することになった。
1955年、休戦協定によって20歳で無事除隊後はアメリカとメキシコを放浪、1956年に帰国後はパリのモンマルトルなど方々を転々とし、サン=ジェルマン=デ=プレに落ち着いた。
■銀幕へのデビュー
翌1957年の夏、女優のブリジット・オーベール(英語版)から「カンヌで映画祭が開催されるから、ぶらぶらしてみたら? あなたほどの美貌なら、監督の誰かから声が掛かるかもしれないわよ?」と言われた。
それがきっかけで、帰国後パリで知り合ったジャン=クロード・ブリアリと2人で、暑かったので上半身裸のままカンヌを歩いてみると、過去にロック・ハドソンを発掘したハリウッドの一流エージェント、ヘンリー・ウィルスンに「君はいい体をしている…」とスカウトされた。
その3日後にローマのチネチッタ撮影所にて、映画『武器よさらば』撮影中のデヴィッド・O・セルズニックのスクリーンテスト(英語版)を受け合格し、アメリカでの成功に太鼓判を押され、英語の習得を条件に7年間の契約を持ちかけられる。
しかし「私はフランス人なので、まずはフランスで勝負をしたい」と保留、女優エステラ・ブランの紹介で、イヴ・アレグレ監督の『女が事件にからむ時』(共演:ジャン=ポール・ベルモンド)でデビューした。
1959年、『恋ひとすじに』で共演した西ドイツの若手スター、ロミー・シュナイダーと同棲し婚約するも、1963年に破棄。
1960年、ルネ・クレマン監督『太陽がいっぱい』に主演。
ニーノ・ロータの曲と共に大ヒットし、世界的にその名を知られる。
その後もクレマン監督作品など、数多くのフランス映画・イタリア映画・アメリカ映画に出演し、自身が出演する作品のプロデュースも手がけるなどして活躍。
Wikipediaより引用
ナタリー・ドロン(「個人教授」主演で日本でブレイク)(1963年結婚、1966年離婚)になぜ、彼が惹かれたのか不思議でした。
子供時代の境遇が酷似しており、強く惹かれあったとされる彼女に、母の面影を重ねていたんですね。
はじめてわかりました。
ナタリー・ドロンと結婚した年に、ロミー・シュナイダーとの婚約破棄があり、またナタリーとの離婚の後は、ミレーユ・ダルクと長い愛人関係があります。
女性に対するぬぐえない不信感は、幼少期の母の影響からなのでしょうか?
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■印象に残る作品は?
「太陽がいっぱい」(1960年)「冒険者たち」(1967年)さらば友よ」(1968年)「ボルサリーノ」(1970年)「「レッド・サン」(三船敏郎と共演)(1971年)「お嬢さんお手柔らかに」ですね。
これを機に、ほかの作品も見ていようかなと思います。
「山猫」「サムライ」「地下室のメロディ」「学生たちの道」・・・
60年の俳優人生ですから、たくさんの作品に出演主演しているんですね。
アラン・ドロンの日本語吹き替えの声優は野沢那智が長く務めていました。
テレビの洋画劇場で印象づけられた「アラン・ドロン」によって、自分の中のイメージが決まったように思います。
また、それは幼い私に、まだ見ぬ国フランスに目を向けてくれたきっかけでした。
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